プノンペンでの真面目な話
サワディー カー
ということで
わたしはカンボジアを脱出し
まさかのタイに再入国しています
バンコクはすぐ出て次の国に行こうかなぁ〜て軽い気持ちで考えてましたが
昨日の嵐の中のフライトが揺れすぎて怖すぎてグロッキーで
軽くトラウマになりそうだったので
バンコクでちょいっとゆっくりしています
ということで、前回アップに失敗した
首都プノンペンでのお話を
ここ、プノンペンでは
たった二十数年前までカンボジアで起こっていた悲しい歴史を学ぶことができます
以下、歴史が超超超超苦手なわたくしが、カンボジアでざっくり学んだ歴史なので、
謝った解釈があるかもしれませんので
話半分て気持ちで読んでください
1970年代、当時豊かな農業国だったカンボジアは
ベトナム戦争の巻き込まれ、アメリカから激しい爆撃を受けてしまいます
一説によるとこの時、50万トンもの爆弾が投下され
国民の大多数が難民となったそうです
そんな政情不安定のとき、当時のロン・ノル政権に打ち勝ち、新しい政権を樹立したのが
クメールルージュでした
国民は新しい政権に期待し、ポル・ポトを歓迎します
ですが、それはさらなる地獄のような日々の始まりでした
かつてのような原始的な農村での生活を理想とし
プノンペンにいた都市住民の全ての財産を剥奪し、全員農村へ強制的退去させました
また、48時間以内に、学校、病院、警察署、宗教、音楽などの全ての娯楽などが、閉鎖あるいは禁止されました
見知らぬ土地で全てを奪われ農業を強いられ
充分な食事も与えられず多くの人が飢餓に苦しんだそうです
それだけでも充分信じられない話ですが
ポル・ポト政権は、知識人は政治の妨げになると考え
医師、教師、技術者
さらには
きちんとした教育を受けた人
外国語を話す人
眼鏡をかけている人
柔らかい手をしている人
など教養が少しでもありそうな一般市民を
次の村への移動と騙して強制収用し
嘘の自白を強要し次々と虐殺していきました
その嘘の自白をさせるための強制収容所の1つS21が
現在、プノンペンに
トゥルースレン虐殺博物館
として残されています
もとは学校だったこの建物ですが
S21に連れてこられた人は
大きな拘束具で拘束され動くことも声を出すことも許されず
多いときには1日3回以上の拷問を受け
嘘の自白を教養されました
この施設では残虐すぎる拷問の数々を
実際に見ることができますが
文字としておこすこともはばかられるような
悲惨なものでした
看守の1人は裁判で
『拷問をするときは何も感じなかった、
自分の心が
自分の行為を止めることはなかった』
と証言したそうです
幼い頃からの洗脳は
人としての心を麻痺させてしまうのでしょうね
そして、その後に人連れてこられる処刑場が
カンボジア各地に存在する
キリングフィールドです
キリングフィールドに連れて来られることは
人生の終わりを意味します
ですが、中にはこれでやっと終わることができると
喜ぶ人もいたそうです
多いときには1日300人もの人が
キリングフィールドに連行され処刑されました
罪のない人
女性も
生まれたばかりの赤ちゃんもです
殺害の方法も非道そのものでした
キリングフィールドでは
被害者の泣き叫ぶ声や断末魔の叫びなどをかき消すため
大音量で音楽が流されていたそうです
クメールルージュは
たった3年間8ヶ月で政権を追われましたが
その3年8ヶ月の間に300万人以上の人々を殺害しました
この慰霊碑の中には
犠牲者になって無残に埋められていた人々の
人骨や衣服が祀られています
だいぶオブラートに包んで書いたつもりですが
残酷さが残ります
驚くべきはこんなことが
たった20年ほど前まで行われていた
ということ
日本は戦争に関わった国として
後世に戦争の悲惨さを語り継ごうと
平和学習に取り組んでいます
ですが、戦争は過去のこと、として
捉えられがちです
虐殺はカンボジアだけに起こったことではなく
ナチスドイツなど
世界各国で起こっています
同じようなことが世界のどこかで
いつか起こるかもしれない
いつ起こってもおかしくない
ということを心に留めておきたいと思います
平和な世界はいつもあるものではなくて
今を生きるわたしたちひとりひとりが
力を合わせて作っていくものだと
改めて思いました
以上、写真少ない真面目すぎる報告でした